Lancia STRATOS
ストラトスはベルトーネの流麗なデザインのエクステリアに、フェラーリ製ディノ246GT用V6エンジンを積む、正に「スーパーカー」と呼ぶにふさわしいパッケージのクルマであった。 少なくとも74年頃、スーパーカーブームの真っ只中にいた小学生の目にはその様に写っていた。 しかし、このクルマが他のスーパーカー達、例えばカウンタックや512BBと全く異なることは、実際のレース・フィールドに登場して、勝ちまっくったということである。 ラリーは言うに及ばず、ツール・ド・フランス等のロードレースやGr.5(シルエット・フォーミュラ)にも出場し、大活躍した。 ”ドラゴン”と呼ばれた名ドライバー サンドロ・ムナーリと共に。 そもそもLancia・ストラトスは70年の秋頃に最強のラリーマシーンを作るというプロジェクトの基に生まれた。 400台のロードカーを生産し、Gr.4の公認を得る。 このプロジェクトはピエロ・ゴバット(チーフエンジニア)とチェザーレ・フィオリオ(スポーツディレクター)の二人の基ではじまった。 フィオリオは90年代初頭、641/2とアラン・プロスト、ナイジェル・マンセルを擁したフェーラーリF1チームの監督だったあの人物である。 その頃、ベルトーネは「既存車種のモデルチェンジは旧型を担当したカロツェリアが担当すべき」と主張するライバルのせいで、新規の仕事が減少の一途にあった。 彼らはまったく新しい車種を提案するという戦術に転換せざろうえず、その一環としてLanciaに新型スポーツカーのデザインワークを提案したのである。 これが自動車雑誌等でプロトタイプ として紹介される"Stratos ZERO" である。 だが、これはデザインスタディに過ぎず、ロードカーのストラトスとは、その名称以外共通するものは無い。 しかし、Lancia側もこのベルトーネのアプローチに可能性を見出し、件の最強ラリーカーのデザインを委任することになる。 実際にストラトスの生産が開始されたのは74年の1月になり、Gr.4の承認を得るのは74年の6月11日までずれ込むが、これはディノ246GT用V6エンジンの供給がフェラーリからなかなかされなかった為である。
The valiation of tomica Lancia STRATOS
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1974 RAC Rally |
1974 Sanremo Rally |
Gr.4の公認が取れるまでの間、Lanciaチームはプロトタイプ・カーとしてストラトスを各地のレースに出場させた。 前述の通り74年も半ばを過ぎてようやくGr.4の公認をとれたストラトスはマルボロカラーを纏ってWRCの舞台に登場した。 10月のサンレモラリーでは公認後の初勝利をあげている。 tomicaでは74年のRACラリーの姿がF-27でモデライズされている。 後にtomicaのストラトスはF-27でストラダーレがF-19でコンペティツオーネが展開された。
1975年にはメイン・スポンサーがマルボロからアリタリア航空へと変わった。 tomicaではF-19に"ストラトス・ラリータイプ”の名称で展開された。 フロント部の金型をライトポッドを装備した状態のものへ改修した。